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聖ジュリー=ビリアートの生涯

(1)誕生

クビリーのビリアート家
クビリーのビリアート家
1751年にマリー=ローズ=ジュリー=ビリアートは、パリから北へ90キロ行った所にあるクビリーという村で、カトリックに信仰の深い家族の6番目の子供として産まれた。ビリアート家は信仰が篤く、大地主であったが、ジュリーが生まれたときには家運は傾き始めており、両親は日用雑貨を扱う小売店を経営していた。ビリアート家にはジュリーを含めて7人の子どもが生まれたが、上から4番目までの子は幼くして亡くなり、ジュリーのすぐ上の姉は目が悪く、弟は足が不自由であった。ジュリーだけが元気に育っていった。ジュリーは小さい頃から神に関する事柄に興味を持っており、聖書の話や聖人の伝記について勉強していた。そしてそれを人の前で上手に話し、教えることができる少女であった。

(2)信仰への目覚め

村の人々に聖書の話をするジュリー
村の人々に聖書の話をするジュリー
ジュリーが8歳の時に、クビリー村にダンジクール神父が助任司祭として赴任してくる。彼は6年後に主任司祭となり、村人の信仰生活を指導していった。そのため彼は村人の尊敬を集めた。子どもの頃のジュリーは、ダンジクール神父が監督する村の学校(正規の学校ではない)に通った。ジュリーはそこで神父から祈りの方法、自分の欠点との戦い方、毎日の自省の仕方、徳の積み方などを学んだ。これらを通して、ジュリーの中で神への信仰が強くなっていった。ジュリーの成長を見た神父は、密かに9才のジュリーに聖体を受ける許しを与えた。聖体は、本来11才から与えられるものだったので、ジュリーはみんなが寝ている早朝に行き、密かに神父から聖体を受けていた。
※ジュリーが生きた18世紀のフランスは、人口の63~65%は読み書きができなかった。資産家の娘は修道院が経営する寄宿学校で教育を受けることができたが、普通は教会の司祭が監督する村の学校へ行くだけであった。

(3)試練

父が狙撃され、ジュリーは身体が麻痺する
父が狙撃され、ジュリーは身体が麻痺する
1767年にビリアート家が営む日曜雑貨店に泥棒が入り、店が大きく荒らされてしまった。それがきっかけで父親は店をたたみ、先祖伝来の土地を手放してしまったので、一家は財政難に陥った。ジュリーは両親を助けようと、とにかく働いた。当初は小娘と敬遠していた村人たちであったが、ジュリーの明るい人柄に敬服し、休息時間には彼女の歌声や聖書の話に聞き入るようになった。
しかしそんなジュリーにさらに試練が襲いかかる。1774年23才の時に、大きな石が家の窓の外から投げ込まれ、ピストルで弾丸が撃ち込まれた。幸いけが人はいなかったが、この出来事がトラウマになり、ジュリーは身体が麻痺してしまう。激しい痛みと不自由を味わいながら、彼女は家事を手伝ったり、教会に行ったり、病人の世話をした。そのようなジュリーに村人たちは同情し、ジュリーを褒めるようになった。ジュリーの噂を耳にした教区長はジュリーとの面会を求めた。司教の質問に答えるジュリーを見て、同席の人々は深い感銘を受けた。そして司教は、ジュリーが神の特別のお恵みを受けていることを感じた。
ジュリーはベッドで寝たまま教えた
ジュリーはベッドで寝たまま教えた
30才の時、クビリー村に伝染病が発生した。ジュリーも医者から伝染病に感染したと診断され、荒々しい方法で、当時では普通だった放血という治療方法を足に受けた。しかし、この治療が逆に彼女の容態を悪化させ、ますます激しい痛みが彼女を襲うようになり、歩けなくなっていった。これから23年間彼女は寝たきりの重病人としての生活を送るようになった。そんなジュリーに、ダンジクール神父を始め、近くの別荘の貴婦人たちが見舞いにやってくるようになっていた。
病気の身でも、ジュリーは地元の子供達に教える事はやめなかった。子供達が彼女のベッドのまわりに集まり、彼女はカトリックの信仰について説明したり、不自由な手で祭壇用のレース編みをしたりすることもあった。そして、このときのジュリーを、セリー神父は「祈りの聖女」と表現した。

(4)フランス革命

1789年にパリのバスティーユ牢獄が襲撃され、フランス革命が始まった。国王ルイ16世は、第三身分(都市の市民や農民)の代表が中心の国民議会を承認せざるを得ず、国民議会が革命を主導していた。1790年に国民議会は聖職者基本法を制定した。この法律はフランス国内のすべての聖職者のローマとの絶縁を企図していたため、教会内で基本法への宣誓をすべきか否かの分裂が起こった。フランス全土では約半数の聖職者が基本法に宣誓した。ジュリーの暮らしていたピカルディ地方では8割近い聖職者が宣誓しており、クビリー村にも緊迫した空気が流れ始めた。1791年にダンジクール神父は宣誓を拒否したため、革命派ににらまれてしまった。彼は身を隠してジュリーの病室でミサをするなど村人を勇気づけていたが、革命派の迫害を恐れ、パリへの亡命を余儀なくされた。ジュリーはダンジクール神父が去った後も教会の一致を願い続け、宣誓派の司教の言うことを聞いてはならないと村人に説いた。そのため彼女は「宗教きちがい」と言われ、革命派に敵視され始めた。
しばしばジュリーを訪問していた貴婦人の一人であるデュ=ポン=ラベ夫人はジュリーの身を案じ、クビリー村から約3km離れたグルーネーの別荘にかくまった。しかし夫人の身も危険になったので、彼女は管理人夫妻にジュリーを託してフランスを去った。1年後、革命派はジュリーが宣誓を拒否している神父をかくまっているときめつけ、別荘を襲った。革命派は教会の祭具を掠奪し、十字架を粉砕し、それを路上に積み上げ、ジュリーを生きながら火あぶりにしようともしていた。この時は管理人が熱弁を振るって革命派をなだめたが、ジュリーは別荘を出ることを決意した。その後彼女はコンピエーニュへ逃走してかくまわれたが、ジュリーがカトリック教会に忠誠を誓っているという評判が広がると危険がその家にも迫るということで、同じ家に長い間いることはできなかった。転居は計5回であったが、転居のたびに病気は悪化し、言葉も不自由になっていった。さらに、この時期(1792年)に父の死の知らせも届いた。コンピエーニュのカルメル会のシスターたちも断頭台に送られてしまった。このような絶望的な状況でも、ジュリーはひたすら祈り続けた。
しかしこの時、ジュリーは幻を見た。キリストの十字架のもとに、見たことのない服装をしたシスターたちがいた。ジュリーが十字架上のキリストを見ると、「この婦人たちは、あなたの娘となる人たちです。あなたは、十字架で印づけられた修道会を創立するでしょう」という声を聞いた。ジュリーは不可能と思ったが、聖母マリアにならって「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように』と答えた。彼女は、それを自分の使命(ミッション)と受け取ったのだった。

(5)アミアンでの生活

ジュリー、フランソワーズと出会う
ジュリー、フランソワーズと出会う
1794年のテルミドールのクーデターにより、ロベスピエールらジャコバン派(山岳派)の恐怖政治は終わった。しかし革命によって起こった国内の混乱は収まらず、カトリック教会は活動を禁止されたままであった。
クビリーで親しくなった貴婦人の一人であるボードワン夫人は、パリを離れ、アミアンに避難していた。夫人はジュリーを自分のそばに呼びたいと思い、是非来てくれるようにと手紙を書いた。ジュリーは病気が重いことと、アミアンで苦しみに遭うことを幻の中で告げられていたので、当初は行くことをためらっていた。しかしアミアンに行くことが神の思し召しであると悟り、1794年10月にアミアンのブラン=デュ=ブルドン邸へ移動した。途中クビリー村で母親と再会するが、この時の見送りが最後の別れとなってしまった。ジュリーがアミアンに到着してから数日後、ボードワン夫人はジュリーにフランソワーズ=ブラン=デュ=ブルドンを紹介した。
フランソワーズはブラン子爵家の姫であった。革命時は収容所に送られ、断頭台での処刑を待つ日々であったが、ロベスピエールの失脚によって解放されたのであった。フランソワーズは、ジュリーのぎごちない声が聞き取りにくかったので、当初ジュリーへの訪問に気が進まなかった。しかし徐々にジュリーを訪問することが楽しくなり、本を読み聞かせたり、スープをなせたりするようになった。優しいフランソワーズの訪問にジュリーも慰められ、いつしか二人の間に友情が芽生えるようになった。ボードワン夫人は、パリでトマ神父と知り合った。収容所から釈放された神父は迫害を恐れて神父の身分を隠し、アミアンに来ていた。そのことを知ったボードワン夫人は、早速神父をジュリーに引き合わせた。神父もやがてブラン邸に住むようになり、ジュリーの部屋でミサを行うようになった。しかしカトリック教会への迫害が再開され、ブラン邸も3回家宅捜索を受けたので、1799年にジュリー、フランソワーズ、トマ神父は、約20km離れたべタンクールへ逃れることとした。

(6)ノートルダム修道女会の設立

べタンクールでは、ジュリー、フランソワーズ、トマ神父が宗教や読み書きを教えて、村のために尽くした。ジュリーは歩けない状況は相変わらずだが、フランソワーズの看病の甲斐もあって、長時間いすに座ることができるようになっていた。さらに、毎日、トマ神父からの問いかけに答える訓練を受け、ジュリーは言葉を取り戻していった。
アミアンの神父たちはよくトマ神父に会いに来たが、その中にヴァラン神父がいた。彼は、ジュリーが神から特別な使命が与えられていると見抜き、ジュリーを励ました。革命の嵐が落ち着いてきた1803年に、ジュリーはアミアンに戻った。当初は庭もない小さな家で苦しい生活を強いられたが、そこでもジュリーは子どもたちを寝台周りに集めてキリスト教教理、読み、書き、算数、手芸などを教えた。その後やや大きな家に引っ越し、フランソワーズやトマ神父もここに住んだ。ここが、ナミュール=ノートルダム修道女会の出発点となるのである。さらにヴァラン神父もやってきた。彼はまだ歩けないジュリーを励まし、若い女性を集めて仕事の基礎づくりをするように勧めた。そして1804年2月2日、ジュリー、フランソワーズ、そして仲間に加わったカトリーヌ=デュシャテルはミサの中で、貧しい子どもたちの教育のために身も心も献げる誓いを立てた。そして聖母マリアを会の守護者として、ノートルダム修道女会の名で事業を進めることになった。※1801年にナポレオンは教皇ピウス7世と宗教協約を結んだ。これによりフランス国内でカトリック教会が復活したが、約10年間の革命が残した傷は深かった。特にフランスの民間教育を担っていたカトリック教会への迫害は、それまでの教育制度をことごとく破壊していたのだった。

(7)奇跡

フランスのカトリック復活を記念し、教皇は1804年を祝賀の年と定めていたため、各地で行事が行われた。アミアンでも宣教大会があり、ジュリーたちも応援を頼まれた。ジュリーは「かごいす」に乗って長い間教会から離れていた人々への指導を任された。同じような宣教師の中に、アンファンタン神父がいた。彼はジュリーの働きに驚嘆し、彼女の体が治るように神に祈り続けた。神父はジュリーに、「ある人のために、今日からイエス様の聖心に9日間の祈りを捧げたいと思っています。ともに祈ってください。」と言った。ジュリーは何も聞かずに、神父と心を合わせて祈ることを約束した。
奇跡的に歩けるように
奇跡的に歩けるように
祈りを始めて5日目、聖心の祝日に、長いすにもたれかかっていたジュリーに対してアンファンタン神父が言った。「マザー、深い信仰がおありなら、イエスの聖心をあがめるしるしに、歩いてごらんなさい。」ジュリーは立ち上がって一歩歩いた。23年間、一度もしたことがなかったことをやってみたのである。数歩歩いてアンファンタン神父は、椅子に座るように言った。そして彼は、このことについてトマ神父以外に言わないように言った。翌日のミサが終わってから、ジュリーは聖堂の脇の部屋に入って、トマ神父を呼んだ。彼はジュリーが歩けるのを見て、驚きのあまり、涙を目にためて立ち尽くした。9日間の祈りの最後の日、ミサ後の祈りを済ませてみんなが1階の食堂に行った。そのとき階段のドアに近いところにいた子どもたちが叫んだ。
「マザーが降りてらっしゃる。」
フランソワーズをはじめ、みんなびっくりしてジュリーに視線を集中させた。ジュリーの足が治った知らせは、アミアンはもちろん、各地に広まった。人々は、ジュリーの深い信仰に神様がお恵みをお与えになったのだ、と言った。ジュリーは、神に向かってよりよく働くためにぜひ歩く力を返してほしいと心から祈っていたので、その願いが聞き入れられたことに感謝した。そして、全存在をかけて、神に示された道を進んでいこうと決意した。

(8)ナミュールへ

ジュリー、教育を受ける機会のなかった貧しい子供たちの学校を始める
ジュリー、教育を受ける機会のなかった貧しい子供たちの学校を始める
ノートルダム修道女会は、順調に会員を増やした。1806年8月には貧しい子どもたちのための自由学園を開き、第一日目には60名以上の生徒たちが集まった。そして生徒の数は、学校のよい評判が伝わる中、日増しに増え続けた。アミアンの修道院を中心にして各地に支部が開設され、シスターが派遣された。ジュリーは派遣されているシスターたちのことを案じて各地を旅行した。学校を開いてほしいという要請があるたびにジュリーは出かけ、司教とその地の市当局と交渉し、新しい修道院のために適当な家を探して住めるようになるまで、細々と気を配った。そしてそこにシスターたちが住み始めると、訪問するか手紙を書いて会員たちを励ました。そして、1806年に修道女会の使徒職の幻を見たのである。
しかしその一方で、新たな苦しみがジュリーを襲う。ジュリーが作成した修道会会則は、それまでの修道会の伝統を壊すものであり、保守的な考えを持つ人々には、とうてい理解できるものではなかったからである。
※当時修道女や司祭は教区によって独立して活動しており、彼らは自分の属する教区だけで働くのが当たり前であった。また、厳しい会則の中で生活している彼らにとって柔軟な規則を用いて教区にこだわらず国中に出向いて修道院を開設し、各修道院が総長ジュリーのもとで統括されるというジュリーの進歩的な考えは理解しがたいものであった。
1807年6月に教会側の会の長に任命されたデュ=サンブシ神父もその一人であった。彼は各修道院を独立させ、アミアン教区以外に修道院を設立しないことを決めて、会則を修正するようジュリーに勧めた。しかしジュリーはこの提案に一歩も譲らず、事態は悪化した。同年7月にベルギーのナミュールに修道院を設立し、フランソワーズが院長となることを知った神父は、アミアン教区中にジュリーの悪口を吹き込んだ。アミアンの司教・司祭、シスター、友人はジュリーに冷たく接するようになり、ジュリーは総長としての権限を奪われ、自分の修道院への出入りまで禁止される有様であった。さすがのジュリーも、ナミュールのフランソワーズに弱音を吐く手紙を送っている。一方ナミュールの司教はジュリーの危機的状況を知り、ジュリーに修道女会の受け入れを提案した。1809年1月、ジュリーはアミアンの司教から事実上の教区退去通告をうけた。ジュリーはこれを落ち着いて受け止め、5人のシスターとともにアミアンを離れた。フランソワーズは後始末をしてから、3月にナミュールに旅立った。

(9)再出発

ナミュールのデュ・フォセ通り(現在はジュリー=ビリアート通りと呼ばれている)の修道院が母院となる。そしてジュリーはナミュールに学校を設立し、教育事業を再開した。さらにジュリーは総長として要望に答えて分院も設立した。そして学校開校、会員養成、激励指導するためにひんぱんに旅をし、手紙を多数書いた。その一方で、アミアンの司教やデュ=サンブシ神父をはじめとする司祭たちからの誹謗中傷は続いた。
 
※1816年にジュリー ビリアートが亡くなるまでに、ジュリーとフランソワーズは、フランスとベルギーの貧しい少女達のためのキリスト教の学校を13校設立した。
 
1812年になると、ジュリーはアミアンの司教からアミアンに戻ってほしいとの手紙を受け取った。ジュリーはアミアンへ行き、かつて自分が設立した修道院を訪問した。しかしそこは財政難に陥って維持が難しい状況であった。そのことを知ったジュリーは、アミアンの修道院の閉鎖を決断する。その後ジュリーは、フランス国内の分院をすべて閉鎖した。

(10)試練再び

ロシア遠征に失敗し、ライプチヒの戦いに敗れてエルバ島に流されていたナポレオンであったが、1815年にウィーン会議が長引いている隙に島を脱出、皇帝に復位した。そのことを知ったイギリス・プロイセン軍はオランダ・ベルギー国境に進出し、一触即発の状態であった。そしてワーテルローの戦いが勃発し、ナポレオンは敗北した。ベルギー国内の分院にも兵士たちが乱入し、荒らされてしまったが、ナミュールは戦火を免れた。ジュリーは戦場に近い分院のシスターたちの無事をひたすら祈り続けた。衝撃的な知らせが入っても毅然として耳を傾け、ほかの会員たちを励ました。しかしこの時のストレスが、ジュリーの健康を大きく損なうこととなってしまった。
 
さらにこの時期、ジュリーはさらなる試練に苦しんでいた。自分が育てたシスターたちから誤解されていたのである。ゲントの修道院長はジュリーの自由で調和的な思想を理解できず、ジュリーと対立した。さらにナポレオンが国内の宗教統制をはかって編纂した「国定要理」を拒否したためゲントの司教は追放されたが、ナミュールの司教は教区に留まっていた。人々はナミュールの司教がナポレオンに降伏したと早合点し、司教を弁護するジュリーに無実の罪をかぶせたのである。ジュリーはこの苦しみに涙したが、寛大な気持ちですべてを受け止めた。この苦しみもまたジュリーの体を蝕んでいった。

(11)帰天・列福・列聖

1816年1月、ジュリーはついに病の床についた。しかしジュリーは病気になっても取り乱すことなく、神への信頼を最後まで失わなかった。そして会やシスターたちのことを最後まで心配していた。4月8日、ついにジュリーは神のもとに召されるのであった。
1906年5月13日、教皇ピオ10世により列福される。この日は現在「聖ジュリーの日」として新潟清心で祝われている。
1969年6月22日、 教皇パウロ6世により列聖される。

(12)世界へ

1815年のウィーン議定書により、ベルギーはオランダに併合された。ジュリー帰天後に総長となったフランソワーズは、会が経営する学校をオランダの教育政策に会わせて正式な認可を得ること、そして修道会の会憲を起草するなどの困難な仕事に従事した。1818年、創立の精神にあふれて生活した体験を生かして、会憲を書き上げた。そして、かつてゲントの司教がジュリーに言った「あなたに与えられた天職は、全世界に渡ることです」という言葉、そして神がジュリーに示した幻(シスターたちが世界に渡ることを示した)はフランソワーズに受け継がれ、彼女は会や事業の発展に尽力した。
彼女が帰天して2年後の1840年、8人のシスターがアメリカに向かって出航した。シスターたちはオハイオ州シンシナティで宣教の火を灯した。その後、イギリス、コンゴ、ジンバブエ、南アフリカ、イタリア、ブラジル、ペルー、ナイジェリア、ケニア、スーダン、メキシコ、ニカラグアにもノートルダムのシスターたちが渡った。
1823年には、ナミュール=ノートルダム会の精神を学んだシスターたちによってオランダでアモスフォート=ノートルダム会が設立された。この会はのちに、インドネシア、マラウイ、ブラジルに広がった。1850年にはドイツのコースフィールドで、アモスフォート=ノートルダム会の精神を学んだシスターたちによってコースフィールド=ノートルダム会が設立された。この会はのちに、アメリカ、オランダ、イタリア、ブラジル、イギリス、インドネシア、インド、パプアニューギニア、韓国へと渡っていった。

(13)日本へ

1924年、アメリカ・マサチューセッツ管区から6人のシスターが日本に派遣された。神戸から岡山に至り、日本での活動を始めた。活動当初は日本語習得など多くの困難があったが、日本のあらゆることに驚きの目を見張り、日本の美しさについて故国に書き送っている。
1964年に新潟教区伊藤司教様の要請により、新潟市に新潟清心女子高等学校が開校される。さらに1993年に新潟清心女子中学校が開校される。校訓「心を清くし 愛の人であれ」に代表されるジュリーの精神は、新潟の地で今も伝えられ、今日に至っている。

聖ジュリーの生涯と新潟清心(年表)

1751        7月12日 フランスのクビリー村で誕生する。
1767(16歳)  家族が財政困難に陥る。行商に出たり、畑仕事をしたりして家計を助ける。
1774(23歳) 父親が殺害されそうになったことがきっかけで病床に就く。
1782(31歳)  手足が麻痺する。
1791(40歳)  話すことができなくなる。
1792(41歳)  父の死。将来の働きについての幻を見る。
1794(42歳)  生涯の友フランソワーズと出会う。アミアンに行く。
1795(44歳)  母の死。小さいグループができる。
1804(53歳)  2月2日 ノートルダム修道女会の誕生。
23年間の不随から奇跡的に回復する。
貧しい子どもたちの学校を始める。
1806(55歳)  ノートルダム修道女会の将来の働きを幻に見る。
フランス各地に修道院・学校を設立する。
1807(56歳)  ベルギーのナミュールに修道院設立する。
ベルギー各地に修道院・学校を設立する。
1809(58歳)  フランスを去って、ナミュールに移住する。
1815(65歳)  傷ついた兵士の世話をする。(ワーテルローの戦い)
1816(66歳)  4月8日 ナミュールにて帰天する。
1906         5月13日 教皇ピオ10世により列福される。(→聖ジュリーの日)
1964 新潟清心女子高等学校が開校する
1969 6月22日 教皇パウロ6世により列聖される。
1993 新潟清心女子中学校が開校する。
2016 聖ジュリー帰天200年
 
*参考文献
・『ひまわりの花のように』1989年 岩田信子 ノートルダム清心中学・高等学校
・『聖ジュリー・ビリヤートの生涯』1987年 マザー・ジョセフ・ブラン著 松本たま訳(南窓社)
学校法人ノートルダム新潟清心学園
〒950-2101
新潟県新潟市西区五十嵐一の町6370
TEL.025-269-2041
FAX.025-269-2042
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